秀吉の岐阜攻めは一種のおとり作戦である。戦場から主力軍を一時引き揚げてしまうのだから、パワーバランスが崩れて膠着状態に変化をもたらすのだ。その誘いに、佐久間玄蕃が乗った結果が、大岩山での中川勢の死闘になった。

<状況は必ず動く>との読みがあるから、いつでも引き返すことが出来る体制をとっている。秀吉は石田佐吉以下の兵站担当の者たちに、帰り道の食料、燃料手配を命じてあった。およそ一里(4km)ごとに握り飯、水などの補給が出来るようにし、夜間移動に備えて松明なども手配してある。「大返し」は備中高松から姫路までで経験済みだ。

揖斐川を前にして、大垣の城下に至ったときに早馬が駆け込んできた。

「佐久間勢7千、賎が岳に攻めかかりました」

これを聞いて、秀吉の顔ににんまりと笑みが浮かぶ。

「ようし、来たか。

佐吉、かねての手配どおりじゃ。すぐ行け」

時に4月19日、午後2時である。50騎の騎馬武者が一斉に近江目指して駆けていく。

彼らは、かねて用意してある場所に先着して、炊き出し、補給所設営などを指図していく。

その後を、秀吉とその馬周りを先頭に、一万人を越える大部隊が、賎が岳を目指して駆け出した。大垣からの距離は13里、約52kmである。マラソンよりは長いが、中国大返しに比べればたいしたことではない。関が原辺りを通過する時間はまだ日がある。陽気も悪くないから、マラソンには絶好の条件だ。近江に入ってからは、先発した佐吉の用意した松明を手にして駆ける。これを山上から眺めれば谷の向こうから光の蛇がくねくねと這い出してくる姿に見えたことであろう。

秀吉が本陣に戻りついた時間は午後7時である。その後も光の帯は切れ目なく続き、9時ごろには全軍が元の配置に戻ってしまった。52kmを5時間、時速10km…自転車の早さである。それほど高速ではないが、重い鎧を着けて走るのだから、驚異的スピードだったともいえる。


「玄蕃様、敵に動きがございますぞ」

大岩山で仮眠を取っていた玄蕃の元に、佐久間兵の見張りが駆け込んできた。光の帯が延々と続き、彼らの陣の近くまで伸びてきているのだ。秀吉の本隊が戻って来たに違いない。

<信じられん>玄蕃は臍(ほぞ)を噛むが、あの光の帯はそれしか考えられないではないか。

「引き上げじゃ、急げ」

大岩山は敵陣の真ん中に位置する。このまま朝を迎えれば敵中に孤立し、全滅するしかない。午後11時、佐久間軍は北を目指して山を降り始めた、が、真っ暗闇である。松明を使えば、こちらの動きが相手に知れて襲われてしまうから、暗闇の中を手探りでの移動である。声すら立てられない。木々の生い茂った山中で、手探りでの移動だから動きは遅くなる。押し合いへしあい、山の中をさ迷い歩く。

2時を回った頃にようやく20日の遅い月が出た。闇に慣れた目には、朝を迎えたほどの明るさに感じる。混乱していた軍の動きも、ようやく統一が取れて移動が可能になってきた。ともかくも、山を降りてから隊伍を整えなければどうしようもない。

山を下ったところで隊伍を整え、玄番を先頭に退却を始めた頃には夜が明けてきていた。

ともかく急がなければならぬ。近くにある敵方の桑山重晴の陣に気付かれぬように余呉の湖に出て、丹羽長秀の陣をすり抜けねばならぬ。

が、桑山の陣はもぬけの殻だった。何の抵抗も受けずに突破できた。

というのは…昨夜、桑山から軍師が来て、彼らの陣地は無条件で佐久間に渡すといってきていたのだ。桑山は中川勢が全滅したのを見て、先に逃げ出してしまっていたのである。

が、丹羽長秀は待ち構えていた。逃げ出そうとしていた桑山の軍も加えて8千の大部隊である。これが前に立ちはだかった。

「蹴散らすぞ、ついてこい」

玄蕃は身を低くして馬の背に身体を沈め、全速で敵陣に突入した。佐久間軍の騎馬、兵たちが槍の穂のような陣形になって突っ込んでいく。見る見るうちに先頭の玄蕃は丹羽軍の包囲を突破して反対側に出てしまった。が、後続はそうは行かない。5千人が敵中突破できるものではない。後から、横から突き崩されて激戦になっていく。


「敵は余呉の岸辺を退却しております」

丹羽長秀からの伝令が秀吉の本陣に駆け込んできた。

「よし、きたか。ものども、思う存分手柄せよ」

秀吉の大音声が本陣の幔幕にこだまする。今か今かと出番を待っていた福島市松、加藤虎之助、加藤孫六などを先頭に荒小姓たちが、戦場目指して駆け出していった。前日の夜に、秀吉から<わしの護衛は要らぬ。敵の首をとれ>と、戦闘許可が出ていたのだ。

勿論、この中に助作、貞隆兄弟も混じる。石田佐吉まで槍を取ってかけている。

秀吉自身も遅れじと、出陣する。

その頃、丹羽軍と佐久間軍は大激戦になっていた。佐久間軍5千と、丹羽7千、桑山1千の兵たちが入り乱れての白兵戦で、戦力が互角であるから接戦になって当然である。そこへ、秀吉本隊の1万が駆けつけたという展開である。

佐久間軍の殿は拝郷五左衛門である。「織田家随一」と言われた槍の名手で、戦の駆け引きも抜群に巧い。追いかけてくる敵に向かって逆に突進してなぎ倒し、さっとひく。それを追いかけてくると鉄砲隊が一斉射撃をして先頭のものを撃ち倒す。ひるんだところにまた突撃して蹴散らす。これを繰り返しながら一回につき数丁ずつ後退していくのだ。丹羽兵はこの戦術に翻弄されて、拝郷の兵を一人も討ち取れずにいた。

そこに駆けつけたのが市松以下の荒小姓たちである。突撃してくる拝郷五左衛門に市松の槍が伸びた。が、鎧をかすっただけで空振りだ。虎之助が反対側から槍を伸ばすが、五左衛門の槍に叩き落されて、槍が手から離れてしまった。前から後から槍を伸ばすが、どれもこれも空振りばかりだ。助作は馬に近づくことも出来ない。

<きっと引き上げるに違いない>助作はそう読んでいた。

案の定、拝郷五左衛門は馬首をめぐらせて引き上げの合図をする。

「今だ!」

助作は身を沈めて拝郷の馬の前足を横殴りになぎ払った。姉川の初陣でやった手を思い出していたのである。馬は棹立ちになり拝郷五左衛門は馬から滑り落ちた。が、姿勢を崩すことはしない。歴戦の勇士であるだけに、こういう場合も心得ているのである。

「下郎」

拝郷五左衛門の槍が助作に向かって伸びてきた。とっさに身体をひねると、わき腹の横を槍の穂が突き抜けていった。その槍を脇に抱えて奪おうと思ったが、そのときはすでに繰り込まれてしまっている。並みの使い手ではないのだ。

反対側から石川平助が槍を伸ばした。が、振り向きざまに拝郷の槍が伸びて、平助の顔面を襲った。即死である。9人で取り囲んでいたのだが、誰も敵わない。

そのときだ。秀吉に斬りかかってきた者がいる。拝郷の部下数名が、秀吉に襲い掛かってきたのである。秀吉の周りを固めていたのは石田佐吉、大谷義継、片桐貞隆などであったが、文官系の心もとない顔ぶれである。

「叔父ご!」

拝郷の正面で立ち向かっていた市松が、拝郷を捨てて、秀吉の救援に走る。この動きで、拝郷に一瞬の隙が出来た。すかさず、右脇にいた虎之助の槍が伸びて拝郷の右わき腹を捉えた。間髪いれず孫六の槍が左わき腹に突き刺さる。

「ごめん」市松に代わって正面になっていた助作は槍を捨てて拝郷に組み付き、押し倒した。脇差を抜いて首を掻き切った。

同じ頃、秀吉の側では、市松が二人を倒し、首を挙げていた。

このときの面々、拝郷五左衛門を討ち取った者達こそが、後の世に言う「賎が岳七本槍」なのである。福島市松(正則)、加藤虎之助(清正)、加藤孫六(光泰)、片桐助作(且元)、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則の7人である。このほかに石川平助、桜井佐吉がいたのだが、死んでしまったものは名誉が与えられなかった。と言うより…太閤記を書いた大村幽古が7と言う数字にこだわったのだ。いわば作文である。この手柄で、7本槍の面々は、各々3千石を貰っている。秀吉の危機をしのいだ片桐貞隆など14人も千石の褒美にありついた。戦死した石川、桜井も弟が千石をもらっている。大盤振る舞いである。

さらに、奮戦して戦死した中川瀬兵衛に代わって、息子の秀政は播州三木城を与えられ、13万石の大大名に任じられている。瀬兵衛、淵之介の奮戦が佐久間玄蕃を誤らせ、引き止めた功績が評価された結果なのだ。

秀吉が小姓たちに大盤振る舞いをしたのは、子飼いの部下を大将格にしたかったからでもある。特に、母方の縁者である市松、虎之助を抜擢したかったのだ。