柴田勢の崩壊はあっけなかった。佐久間軍が秀吉の包囲の中で苦戦しているのを見た玄蕃の弟、勝政が2千の兵で救援に駆けつけたのが、玄蕃の失敗に更に上塗りをしてしまった。

この救援部隊が、丹羽軍に襲われて、今津方面に逃げ出してしまったのである。それを見ていた前田利家は、柴田勝家には無断で退却を開始した。更に、金森、不破の軍も無断撤退を始めた。そうなると戦場に残るのは、柴田、佐久間の軍しかいない。ただでさえ劣勢だった柴田軍は半数が、戦場から離脱してしまったのだ。

こうなれば勝家とにらみ合っていた羽柴秀長、堀、池田などの軍も黙ってはいない。一斉に柴田軍に襲い掛かる。もはや戦いではない。逃げる獲物を追いかける狩のようなものだ。

僅か一日、いや、半日で、柴田勝家の3万の軍隊は散り散りバラバラになって本国へと逃げ帰ったのである。もはや軍隊の体をなさない、逃亡者の群れとなってしまった。

秀吉軍は逃げる敵の後を追って越前に入る。戦線離脱した前田、不破、金森を先頭にして一気に北の庄に迫り、十重二十重に包囲してしまった。7万に近い軍勢が取り囲むのだから、まさに蟻の這い出る隙もない。更に、逃げた兵たちは落城が必至の城などには戻ってこない。落ち武者狩りを怖れて、山中深く逃げ込んでしまっているから、北の庄に残るのは女たちばかりである。

本陣の秀吉は、一人イライラを募らせていた。

「お市様はなんとした。又左(前田利家)は何をしておる」

立ったり座ったり、床机の周りを歩き回ったり…落ち着きがない。そこへ、前田利家が浮かぬ顔をして入ってきた。

「ダメでござる。お市様はなんとしても権六殿とご一緒するのだと取り合っていただけませぬ。お三方の姫君だけをお救いいただきたいと繰り返すのみで…」

「ならぬ。権六めが引き止めておるのじゃろう。未練な奴め」

「そうではござらん。柴田殿もご一緒になって、言葉を尽くして説得しておるのじゃが、頑としてお聞き入れにならぬ。落城の恥をさらすのは一度でよいと仰せじゃ。

それに…」

利家は言葉を切った。言いよどんでいる。秀吉が2度、3度、続きを催促すると…

「言いにくいが…お市様がおっしゃったとおりに申し上げる。

我が夫・長政殿を殺め、それに飽き足らず、今度は勝家殿も殺めようとする猿は、悪魔の使いじゃ、顔を見るのも汚らわしい…と、申された。

わしが、ならば秀吉殿が預かるのではなく、この又左の城ではいかがかと、水を向けてみたが…、やっぱりダメじゃ。権六殿も、信長公のためにも、生き延びてくだされと申したのじゃが…、信長は兄ではない。あれこそが魔王だと申しておった」

「そこまでに…か」

秀吉も肩を落とす。もはや手はないか…机を掴んで下を向いた。その机に涙がぽたぽたと落ちてきている。利家も、膝を掴んで泣いている。

突然秀吉が大声を上げた。

「もはやこれまで。助作を呼べ」

またもである。助作に命じられたことは、城を落ちてくる三人の姫たちを出迎えに行く役割だ。これで三度目ではないか。小谷を落ちるお市様親子を送り届け、小浜では京極龍子を出迎え、そして今度は茶々を頭とする三姉妹を迎えに行く役目だ。

足が重い。茶々に合うのは何年振りであろうか。さぞかし立派な姫君に育っているに違いない。城門をくぐり、奥まで案内されていく間も、全く周りが目に入らぬ。どういう顔をして、なんと言ったらよいのか…。頭の中は真っ白だ。

本丸御殿の門前で控えさせられた。片膝をつき、頭を下げて姫たちが出てくるのを待つ。

扉の内側では女の子が「嫌じゃ、嫌じゃ」と泣き叫び、「母様も一緒に」と泣き喚いている。

どうやら三の姫様らしい。小谷のときは何も知らずに、お市の腕の中で眠っていた姫だ。

扉が開いた気配がする。が、助作は顔を上げる気分にはならない。涙が勝手に流れ落ちて、地面すらおぼろげに見えている。

「助作・・・ではないかえ」

聞き覚えのある声が頭上から落ちてきた。お市様だ!

「ははー。申し訳ございませぬ」

頭を地面にこすり付けた。何とも答えが出来ない。顔を見ることも出来ぬ。

「茶々や、よかったのぅ。助作が迎えに来てくれたのなら安心じゃ。

覚えておろう、小谷の城で万兄様と一緒に遊んでいた、あの助作じゃ」

恐る恐る顔を上げてみる。お市様と並んで茶々が立っていた。泣き腫らした目が潤いを帯びて、助作の目をじっと見つめる。茶々の憂いに満ちた視線には一秒も耐えられない。

「ははー、・・・」

言葉が出てこない。またしても平伏して泣くしかない。

「ほほほほ。亡くなった万兄様と同じく、言葉が出ぬようになってしまったようじゃ。

助作や、ここに私から猿への手紙がある。きっと、申付け通りにせよと伝えてたもれ。

わらわの最後の願いじゃと申してな」

「ははー。必ず、必ずや、命に代えまして・・・」

「命は粗末にしてはならぬぞ、助作。そなたにはわが娘たちの行く末を守ってもらわねばならぬ。浅井のお屋形様に可愛がられたそなたじゃ。我と長政様に成り代わって、3人のことお願いいたす」

「勿体無きお言葉、助作、必ずやお役に立ちまする」

助作の脳裏には、お屋形様の笑顔と、その脇に控えたお市様、その前を無邪気に駆け回る万福丸とお茶々の姿が鮮明に甦ってきた。もう一度、あの時代に戻りたい。

「では頼みましたぞ」

目を上げると、お市の姿が扉の向こうに消え、硬い扉と、泣き出した三人の姉妹が残された。三の姫、お江様は扉を叩きながら「母上」と連呼して泣き喚いている。

「江、参るぞ。もはや戻れぬ」

茶々の凛とした声が、助作の感傷を解き放ち、我に返してくれた。

「三の姫様、それがしの背をお貸しいたしまする」

「いやじゃ。猿の家来の世話にはならぬ」

相当に気の強い娘らしい。ぷいっと横を向くと先頭に立って歩き始めてしまった。

「江。助作はな、秀吉の家来でもあるが、もともとは浅井の父の家来じゃ。兄様の一番の家来であったのじゃから、仲ようせねばならぬ」

茶々が歩きながらも江を説得している。秀吉に無礼がないようにと、姉らしい心遣いをしているのだ。二の姫、初は下を向いたまま、溢れる涙が止まらない。二の丸から輿に乗せ、秀吉の本陣までの道のりをたどる。軍兵たちの好奇の目にさらされながらの行列は、助作にとって実に嫌な仕事である。

酒に酔ったらしい兵が一人、ニヤニヤ笑いながら輿の中を覗き込もうと近づいてきた。

「下郎、下がれ」

助作の鞭がうなりを挙げて男の顔面を捉えた。男はもんどりうって倒れ、そのまま路上に伸びている。

「姫様、申し訳ございませぬ。無礼をお許しください」

「あの者、殺してはならぬ」

輿の中から茶々の声が聞こえた。

「その者の首、斬ってはならぬ。姫様の思し召しじゃ。きつく叱りおけ」

助作の声に、ざわめきが起こった。「あれが7本槍の片桐殿じゃ」「なかなかにご立派じゃ」などという声が耳に入る。このあたりは、まだ前田の陣である。こんなところにまで噂が広がっているらしい。面映い。

待ちかねていた秀吉が陣幕の前まで出迎えに来ていた。

「申し訳ございませぬ。お市御寮人様はお連れできませんでした」

馬から下りて、秀吉に深々と頭を下げる。

「仕方あるまい。そなたのせいではない」

そう言いつつも、秀吉の頭は成長した茶々への興味で一杯になっていた。

「これは、これは、一の姫様、お茶々様」

秀吉の態度は占領軍の司令官の顔ではない。恋人に出会った初心な男のように取り乱している。手をとるようにして奥へと案内していく。初や江などは無視されてしまっている。

「お市様から書状をお預かり致しております」

助作が書状を手渡したとき、突然大音響がこだました。城の上部が吹き飛び、そこから真っ赤な火柱が立ち上がっている。柴田勝家とお市が、城を枕に自決したのである。

「母うえー」江が、火がついたように泣き出した。初と抱き合って泣いている。

茶々は、呆然として燃え上がる北の庄城を眺めていた。