本丸に天守閣が姿を現した。「安土を越える」と秀吉が豪語したとおり、建坪の広大さといい、内部の広さといい、安土城の倍以上の規模である。デザイン的に安土城のような奇抜さはないが、飾り破風(はふ)をふんだんに配した華やかさがある。秀吉がこだわったとおり、大阪の町からも、海上からもその見事さがきわだって、他に類を見ない大建築である。

二の丸では、屋敷を与えられた大名や旗本たちが、天守閣に負けじと華美を競った屋敷を建て始めていた。助作の与えられた市(いち)正(のしょう)曲(くる)輪(わ)とて同様で、お光の父、半右衛門が陣頭指揮で、助作の屋敷、加兵衛の屋敷、家臣の屋敷や長屋を建てている。

この時期、秀吉は朝廷から関白の位を賜った。押しも押されもせぬ、日本国の政治首班である。天皇の代官として、政治一切を取り仕切る官位を得た。

それもあって、秀吉子飼いの者たちも朝廷から位階を賜った。助作は従五位下、東市正となり、加兵衛は同じく従五位下石見守を拝命している。このときの任官だが、秀吉の人事政策が見え隠れしていて面白い。軍人タイプの大名たちが貰った官位は「守」であり、地方行政官の職名である。一方、内政面を任されていた者たちは輔、介、佐、正などの官位になる。石田治部少輔、大谷刑部少輔などがそれにあたる。ちなみに助作が拝領した東市正は商務長官であり、石田三成は総務次官、大谷正継は警察庁次官である。その意味では軍人タイプの加藤清正が主計頭であり、福島正則が大膳太夫であるところを見ると、秀吉政権の中枢を占めるものには内務官僚の呼称を与えたのかもしれない。

この頃から、助作の名も公式には「且元」となるのだが、それは表向きのことであって、秀吉の存命中はすべて通称で通していた。したがって、この物語も助作、虎之助、市松、佐吉のままで続けたい。


東部戦線に大きな動きがあった。秀吉が懐柔していた織田信雄の家老たちが、裏切り者として信雄に処刑されたのだ。彼らは秀吉の口添えで朝廷にも正式に任官されていたから、それを朝廷、つまり朝廷の代官である秀吉に無断で処刑したというのは、国家に対する反逆であるとみなした。信雄征伐……織田家で唯一実力を保っていた信長の息子を葬り去り、秀吉政権を磐石なものにしようという計略に、うかつにも信雄が乗ってしまったのだ。

戦いは池田勝入の犬山城攻撃から始まった。いわゆる小牧長久手の合戦である。小牧山に陣取る織田信雄、徳川家康の連合軍を、秀吉の10万を越す軍が包囲するという形だが、双方ともに決め手がなく長期戦になっている。

この戦いに、助作には軍人としての出番はなかった。三の丸の普請や海岸の埋め立てなど、町割、城下の整備が主務で、大阪の都市建設に明け暮れていた。この分野の仕事は、助作にとって得意ではないが、義父の半右衛門や、松野左近が手際よくこなしてくれていた。

特に、最近では左近が出身地、茨木から連れてきた郎党たちがよく働く。測量や計算の技のあるものが多く、仕事にそつがないのだ。左近の扶持で賄いきれぬものは助作や加兵衛の家臣とし、十石、二十石を与えて士分にしたものも幾人かある。

助作は、毎朝決まった時間に、律儀に家を出る。本丸に出仕し、城代として残っている秀長に挨拶をし、それから受け持ちの地区を巡回し、部下を督励するという毎日だ。雨の日も、風の日も、変わることなく続ける。

「市正殿は阿呆ではないか」などという陰口が、佐吉の部下の間でささやかれているようだが、そのような噂に気を使っていては神経がもたぬ。与えられた仕事を精一杯、手抜きせずにやりきるのが自分の持ち味である。「我は我、評判は人の勝手」母のおしげから教えられた言葉を噛みしめながら、黙々と続けるのが助作の持ち味である。

加兵衛に任せている船着場、船場に廻ったときに、珍しく加兵衛が馬を寄せてきた。

「兄者。商人どもの噂じゃが…関白殿下の軍が負けたという噂がある。聞いておらぬか」

助作にとっては初耳である。

「まさか。秀長様は常と変わらぬご様子であったが…、そういえば佐吉の部下たちがざわついておった。何か動きがあったかも知れぬ」

「であれば、我らが支度をしないでよいものか。

大阪に攻め込まれることはあるまいが、辺りが騒がしくなるやも知れぬぞ」

「ふむ、そういえば和泉の方面が気になる。雑賀の残党どもが事を企てるか」

事実、敵に廻っている家康から、紀州雑賀、四国の長宗我部には密使が飛び、後方かく乱の動きが現れていた。城の南方、こちらは縄張り上では大阪城の唯一、手薄な方面である。

「堺の押さえがいるかも知れぬ。

よし、そなた、ここは左近に任せて、平野から和泉、紀州方面に目を光らせよ。

甚兵衛、甚六の兄弟も連れて行け。あの者たちの下には隠密の心得のあるものも多い。

何かあればすぐに知らせよ。くれぐれも軽挙は慎めよ」

事の真偽はわからぬが、商人たちの情報は早い。尾張で何がしかの動きがあったことは事実であろう。それに……、助作は思わずにやりとした。

加兵衛の妻は堺の大商人、今井宗薫の娘である。今度の戦では徳川が敵に廻り、徳川と懇意にしている今井宗薫の娘を城内、本丸近くに置くわけには行かぬと、加兵衛は妻を里に帰してあったのだ。<堺へ・・・>下心が見えるような気もする。


小牧の戦線では商人たちが噂するような異変が起きていた。池田勝入の進言で徳川勢の手薄な三河に進入し、岡崎城を占拠してしまおうという奇襲作戦が実行されたのである。

ところが、この動きを見破られ、秀次を総大将とした池田、森、堀などの混成部隊は、長久手の地で徳川軍に大敗してしまっていた。池田、森の両将が討ち取られ、総大将の秀次は命からがら逃げ帰るという大失態を演じていた。

が、その後は、またもとの膠着(こうちゃく)状態に戻っているらしい。

助作がいつも通り秀長の前に出仕すると、今日は様子が違う。

「助作、留守居をせよ。わしは今から伊勢に出陣する」

伊勢、そうか、織田信雄の根拠地である伊勢を攻撃し、さらに尾張の清洲城を揺さぶろうという作戦であるらしい。徳川がダメなら信雄を…転んでもただでは起きないのが秀吉である。

「それがしのお供は適いませぬか」

「ならぬ。周りを見渡してみよ。おぬしまで出かけたらこの城に残るのは佐吉などの鳥どもばかりになるではないか。囀(さえず)るだけでは戦は出来ぬ。

よもやここまで敵がくることはあるまいが、万が一ということもある。そなたがいれば、母も義姉様も安心じゃからな。しかとお勤めしてくれ」

確かに、秀長の軍が3万もの規模で留守にしては危うい。

「承知いたしました。が、弟の貞隆はお供させていただけますまいか。

あやつ、戦がしたくて仕事に身が入っておりませぬ。何卒…」

豊臣家の大戦(おおいくさ)、天下分け目の戦いに片桐家の旗が立たぬでは武家の面目にかかわる。

せめて一琉でよいから「ちがい鷹の羽」の旗、片桐の家紋を戦場に立てたい。

「よし。許す。但し、少人数にせよ」

余談になるが、片桐の家について触れておこう。片桐家は源氏の家系であり、鎌倉幕府、御家人の先祖を持つ。代々、信濃の伊那谷を本拠として勢力を張っていたのだが、室町時代にその分家が近江に土地を貰って移住した。助作の家はその流れだ。本家筋は、そのまま伊那に残り、戦国時代は諏訪家、武田家などの武将として働いている。この頃は分家した飯島、下条などの家の方が記録に残り、武田軍団に片桐の名は見つからない。

加兵衛が大喜びしたのは言うまでもない。須賀谷以来の郎党たちが我も、我もと名乗り出て片桐屋敷は大騒ぎになった。

「10騎に限る。加兵衛、指名せよ」

ここは厳しく言い渡しておかねばならぬ。加兵衛は近江者から5人、播磨者から3人、茨木勢から2人を選んだ。これが、今の片桐家の平均的な人材の出身地構成である。

「甚六が一隊、弥介が一隊、そして平吉はわしの脇で旗奉行をせよ」

片桐隊は一騎に3人の足軽がつく。それを3騎まとめて組長格がいる。だから最小単位は10人の兵団となる。これを更に三つまとめて一つの作戦単位にしているのだが、今回は人数を限られているから2組だけの変則な編成である。

翌朝、本丸から押し出してきた秀長の部隊に合流して3万の大軍が伊勢へと押し出していった。伊賀の信雄勢力を蹂躙し、伊勢の城も次々に落として清洲の対岸に勢ぞろいする。

これに驚いたのが信雄である。帰る城を奪われたら小牧山で孤児になる。

それを見透かすかのように、秀吉から和平の誘いが来た。溺れる者が藁をもつかむ心境であったのだろう。家康の知らないところで、織田と豊臣の和平が成立してしまった。

こうなっては「信雄の援軍」を大義とする家康も、秀吉に抵抗する論拠を失う。すごすごと浜松に引き上げるしかない。小牧山の戦いは、あっけない幕切れとなった。

このときである。佐治に嫁入りしていた長政の三女、江が離婚の憂き目に遭っていたのだ。