浅井長政には二人の男の子と、三人の女の子がいた。長男の万福丸は、助作が兄代わりになって養育していたのだが、小谷落城の後、捕らえられて、関が原で殺されてしまった。

次男の虎千代は佐吉とともに城を抜け出して、身分を隠して近江石田郷の寺に匿われていたのだが、その後の消息を聞かない。

そして姫たちは伊勢の織田信包に養われ、その後、越前北の庄に移り、更に安土から大阪へと流転の人生を送ってきている。今は本丸御殿に特別の部屋を与えられ、秀吉の養女のような身分で暮らしていた。

そのうちの三の姫、お江が佐治一成の元に嫁いだのは半年前のことだ。長女と次女をさておいて、なぜ三の姫が先に嫁入りするのか。大阪城本丸の女たちはかしましく噂を飛び交わしたものだが、真相は誰にもわからなかった。理由は…単純なことらしい。お江は秀吉にも寧々にも懐かず、野良仕事を続ける秀吉の母を軽蔑して、大阪城の奥の序列をかき乱していたらしいのだ。嫁にやるというのは一種の厄介払いで、たまたま織田水軍の中で、知多半島・大野にあった佐治一成が、お江の結婚相手に選ばれたのである。

佐治一成は母方の伯父である伊勢・津の織田信包とともに伊勢湾を扼(やく)する水軍の統領である。が、伊勢長島攻めで戦死した父から領地を受け取ったばかりで、気の荒い水軍の兵士たちを掌握できていたわけではない。網元の若旦那というところである。

小牧の合戦には織田信雄の配下として参陣した。が、伊勢湾に入る豊臣方の船を見張っていただけで戦闘には参加していない。が、これが秀吉の癪(しゃく)に障った。直接参加していなくても敵対行動をとったのである。さらに、三河に引き上げる家康軍に海路の便宜を図った。

これは、一成の多くの部下が家康の支配下にも漁業権を持っているのだから、挨拶代わりのお付き合いである。水軍といっても漁師の集団であり、船は漁船でもあるのだ。

「離縁じゃ。連れ戻せ」

秀吉の怒りに驚いた織田信包が大慌てでお江を取り返し、秀吉の元に送り返してきたのは大名として当然の判断である。信包はすでに信雄を見限って、秀吉に臣従していたのだから、余計なことをすると伊勢に進駐している秀長の軍に攻め落とされるかもしれない。

この受取人が…、またしても片桐家の仕事になった。秀長にしたがって伊勢にいた加兵衛がその役回りを務めることになったのだ。

大阪へは津から海路を取った。信包が気を回して、自らの軍船を提供してくれたのである。

船は二日で天保山沖に着き、小船に乗り換えて、加兵衛が建設中であった船場の船着場に着く。ここから城までは輿を仕立てての入城である。

「いやまぁ、手のかかる姫でござったよ」

加兵衛の報告を聞きながら、助作は苦笑いした。

「我が家は人質の送り迎えのお役かよ。はははは、わしばかりか、おぬしまでとはな」

「余りよき役ではないぞ、兄者。

舟の中では泣きどおりじゃ。海などに身を投げられてはならぬでなぁ、わしは寝ずの番じゃったわい。嫁入りして半年ばかりで離縁とは…因果なことじゃ」

「して、本丸御殿ではいかがであった」

「うむ。茶々様にすがり付いて大泣きしておった。わしは見てはおれなんだでなぁ。早々に退出してまいった。佐吉が、何やかやとちょこまか動いておったが、女の扱いはあ奴に任せたほうが良かろうと思ってな」

「確かに。それが良い。女の相手など武士のすることではないでなぁ。佐吉が似合いじゃ。

戦に出て行って、姫のお供で帰るとは、その方も不憫な奴よ」

そこへお光が酒肴の用意をして現れた。

「お前様、そのようなことを申してよろしゅうございますか。私とて女、寧々様とて女でございますぞ。この世の半分は女でございますからな。

女を甘く見ると出世どころか、足元を掬われまするぞ。

ましてや浅井の姫君は、お前様が尊敬していた長政公の忘れ形見ではございませぬか。

あだや粗末にしては、長政公のお叱りを受けまするぞ」

またやられた。兄弟は顔を見合わせて苦笑するしかない。どうもこの家は女が強い家だ。父の直貞も母に頭が上がらなかったし、爺様とてそうだった。それに、仕えている豊臣家がそうなのだから仕方ないのかも知れぬ。

表座敷の方からは平吉の自慢話が風に乗って聞こえてくる。

「伊賀上野城に一番に旗を立てたのは我が片桐部隊である」と自慢げに吹聴しているのだ。

本当か? 助作は加兵衛の顔を窺(うかが)った。

「嘘ではない。ただし、一番槍ではないがな。一番先に旗印を立てたのは我らじゃ」

「ホー、やったではないか」

「なに、一番に乗り込んだ藤堂殿が、旗持ちを鉄砲で撃ち落されてしまったからじゃ。

であるから、二番手の我らの旗が一番先に立った。平吉はそれを言わぬ」

「ははは、それでは拾い首のようなものではないか」

拾い首とは、他人が倒した敵の首、戦果を横取りすることである。

「ふむ、…のようなものではあるが、本陣の秀長様からは我らの旗が一番に立つのが見えたようじゃ。その褒美が、姫様の護衛であったかも知れぬな」

三人して大笑いである。市正曲輪は笑いの中に夜が更けていった。


秀吉や秀長が、近江の草津で落ち合って凱旋してきたのはそれから三日後である。京の町を練り歩き、それから、ゆるゆると凱旋行列をしてきたらしい。

助作、加兵衛の兄弟は本丸の大手門前で立礼して出迎えた。目ざとい秀吉がすぐに加兵衛を見つける。馬上から大音声だ。

「片桐石見、その方伊賀上野城での働き見事であった。五百石加増して遣わす」

こういう所でも気前の良さをアピールする。その演出の巧みさこそが秀吉の得意技なのである。褒められた当人だけではなく、周りのものにまでやる気を出させるのだ。

本来ならば藤堂高虎が褒められるべきところだが、高虎は秀長の家臣である。秀吉直属ではないから、秀吉が加増するわけには行かない。したがって、直属の部下である加兵衛に褒美のお裾分けが廻ってきたのだ。勿論、高虎には秀長から加増がなされている。

そうは言っても、今回の戦では秀吉の勢力圏が広がったわけではない。信雄とは和睦をしただけで、領土を割譲させたのではない。戦死した池田、森の両家にも、そのまま後継者に任地を任せているのだから、直接収入にはならないのだ。

が、秀吉、官兵衛の戦略は確実に一歩前進した。信雄と家康の間に相互不信という大きな楔を打ち込んだのである。しかも、家康が執着していた信濃では、真田昌幸が家康と決定的に対立し、信濃北部を家康の支配から奪い取っていたのだ。その真田こそが、家康の力をそぎ取る強力な武器として育っていくのだが、今はまだ、上田の城にあって、家康の喉に刺さった小骨に過ぎない。

そんなある日、秀吉から奥に来るようにと助作に使いがあった。

<何事であろうか> 奥に伺候すると寧々の部屋に来いという。

当時大奥という言葉はないが、このような奥御殿に男が入るのは憚りがある。

廊下に正座して来着を告げると、内側から寧々がカラリと障子を開けた。

「そのようなところで鯱(しゃちほこ)のまねをせずともよい。入りなされ」

寧々の機嫌は余りよろしくなさそうだ。何か諍(いさか)いをしていたらしい。

「助作、我が家の色気猿がな、お茶々殿に懸想をしたというのじゃ。年甲斐もない。

まぁ、そこのところは許してやったのじゃがな、よりによって、この私にそのことを伝えてくれというのじゃ。

ほんになぁ。妾を許すだけでも度量のある妻だというに、橋渡しなど真っ平御免だと断ったのじゃ。わらわは敵に塩を送る謙信公ではないわ。

そこでじゃ。茶々とは長い付き合いのそなたに相談というわけじゃ」

また女か…助作は気が滅入ったが、関白殿下と北政所様のご指名では逃げるわけには行かぬ。しかも、この部屋には秀吉、寧々、助作の三人しかいないのだ。

恐る恐る聴いてみた。

「内向きの御用なら佐吉がおりまする。あの者なら私同様に浅井家以来の付き合い…」

話の終わらぬうちに、秀吉が吐き出すように話し出した。

「しくじりおったわ。恩着せがましゅう、脅すようなことを言うから、茶々がすっかり臍を曲げてしまってのぉ。わしの顔を見るのも嫌じゃと申す。

あやつ、小才は切れても女心が分かっておらぬ」

「その様な者を使うからでございます。

佐吉のことは、虎や市松も嫌っておりますし、私の前でもコソコソして、ほんに目障りな奴じゃ。婆様の野良仕事にも文句を付けよる。ほんに嫌なやつ」

これは困った。佐吉がダメなら…俺しかいないではないか。